屋台建設への想い
秋が来ると
袋井市では屋台が街に出る。わが故郷の風物詩のひとつ。子供の頃はわが集落には屋台はなかった。したがって屋台を見たくなると町に出る。その頃は屋台は東海道とか比較的ひとが集まった地域にしかなかった。その原因は屋台を作ったり運営していくために多額の費用がかかることからそうなったのではなかろうか。
袋井市には、浅羽町と合併する以前における屋台の数は、平成16年頃は105台でありまた。その建設年代状況を見ますと昭和4,50年代が過半を占めています。当市における建設年代のもっとも古いのは袋井市からの資料によれば献瑞車です。
この献瑞車は明治年代に作られ、現在の屋台は
3代目とききおよんでいます。
袋井市東地区で一番歴史の古い屋台は名北の屋台であります。
さて、わたしの住む集落では平成11年新しい屋台を築造しました。その名を貫栄車といいます。この名前は、昭和55年に住民の出資で築造した初めての屋台の名前を引き継いだものです。下貫名が栄えることを願って命名されたものと思います。命名者は明確ではありません。だれかれとなく発言があって貫栄車となったと記憶しています。
この頃つまり昭和4、50年代は、下貫名集落の人口は、増加の一途をたどっていました。このことは今まで集落内において行事を行うにしても現在のような多種多様なの職業ではなく、過半が農業で、考え方も生活形態も似通っており、順調に行事の日程などが決定することができました。
しかし、昭和30年代の中頃から集落では農業を兼ながら会社に勤めたり、農閑期になると建設現場に働きに出るようになっていきました。こうした変化はわたしの住んでいる集落では近隣の集落に比べ比較的早い時期から始まったように思います。その原因はいくつか感えられると思いますが、当集落の農業経営環境、つまり水田単作地帯であり小規模規模経営などが第一の原因とわたしは考えています。一部の農家では集約栽培としてのメロン作りを始めた方もありました。